こんにちは。AIやUnreal Engine(アンリアルエンジン/アメリカのゲームエンジンで現実のような描写が可能)が猛威を振るうなか、絵を描く必要性は今後無くなるのでしょうか?
最近AIがレンブラントの新作を描いたようにAIが絵を代理で描いてくれて、人間が絵を描いたり、絵を学ぶ必要は今後無くなるのでしょうか?
皆さんはどう思いますか?
私は、今後とも絵を描く行為は無くなることはないと思います。その理由を今回は語っていきます
知識重視か身体重視か
人間には心(mind)や思考と身体(body)があります。心は脳に属するのか、または身体に属るのか?そもそも心はどこにあるのかなんて問いは難しいところですが、知識重視の人間と身体重視の人間がいるのは確かです。
知識重視(intellectual)は主に脳で物事を認識するのに対します。こちらは哲学でいう合理主義(rationalism)に近いです。身体重視は体を動かして得た経験から物事を悟ります。こちらは哲学でいうところの経験主義(empiricism)に近いです。絵画はその性格として両面性があり頭で考え体で絵を描きます。しかしAIに自分の描きたい絵を描いてもらう、または描写をアンリアル・エンジンにやってもらうという作業は、クリエーターの「描く行為」とは知識重視に傾きます。つまり家にいながらデスクトップと向かい合いながら、身体を動かす行為は極力少なくなるのです。
「描く行為」とは伝統的には画家の身体と物質(絵の具など)と常に連動していましたが、現代においては描く行為は身体と切り離され、物質とも切り離されていく傾向にあるのです。
子供が衝動的に絵を描きたくてクレヨンで落書きをしたりしますよね。
あれは本能的に思いを体で表現したくてたまらない人間の欲求があるからです
つまり人間の描く欲求とは心と体の両面を通して充足するようになっていると考察することが出来ます。
身体は現実のこの世界、つまり物質の世界に属しており、仮想空間(データを基盤にしたプログラミングの世界)の世界に属していません。
人間が絵の具を用いて絵を描き、物質的に自分の表現が作品として現れると満足するというのは、作品が現実世界(体の世界/物質世界)の物として現れ、そこに価値を本能的に見出すからです。つまり、仮想空間での産物ではなく、物質界に作品が存在していることに価値を感じているのです。
いいかえると人間は概念の世界だけでなく、物質の世界にも価値を求める存在だとも言えます。
仮想空間での「物」には価値が生じるか?
何が価値があるかを論ずるには、価値の基準をどこに置くかが重要になってきます。
これには哲学的に様々な思想があるかもしれません
昨今では仮想通貨のビットコインの価値がもの凄い価値をもっていますが
本来は金やプラチナ、宝石などが変わらない価値があり、それを財産(real assets)とよびますよね。金が変わらない価値を持つのは物質界で状態変化しずらいからです。そういう面でお札や、デジタル通貨としてとして記載される銀行の残高には不変の価値がありません。お札は中央銀行がいくらでも生産でき、また主権者の意向により、銀行の残高数字を万が一の場合0にすることができます。
では仮想空間、例えばメタバースで描かれた絵画作品には価値があるのでしょうか?
どにように思われますか??
私はある価値はあると思います。例えば物凄く良く作られたゲーム作品などはプレイしていて凄いな!と思ったことがあります。そしてそのゲームをつくるのに莫大なお金と時間、スタッフの努力が注がれているので凄い作品が出来上がったのです。わたしはそのゲームをプレイして作品として価値があると思いました。ただ人間が身体を動かし汗水たらして描いた作品とは価値の性格が異なると思います。
絵画と物質との関係性/体で描くことの意味
先品を美術館やギャラリーで絵画を展示する時、キャプションに必ず素材(Oil on canvasとか)と制作年(1975年とか)を記載するのは何故でしょうか?
絵画の本質的特徴とはマテリアル(物質)を使って描くことです。
昔はフレスコ画ではテンペラを使い、油絵の具、岩絵の具、現代ではアクリル、鉄、砂、Mixmediaと
歴史をみると必ず描く行為、創る行為は物質と連動しています。心と頭で感じたことを体を動かして物質と触れあい、最終的には物質を使用して描く、これが絵画の本質です。なぜなら身体は物質界に属しているからです。これをあえて物質を精神と分離させて世俗的なものとして無視する必要はないと思います。
存在しているからには何かしらの価値があるからです。人間の喜びや満足感は身体を通して得られることを否定できません。
家にこもってゲームばかりしてたりスマフォばかり弄っていると廃人になりますよね。漫画喫茶でマジック・ザ・ギャザリングばかりしていると誰しも虚しさを感じざるを得ません。
ジムに行って体を動かす、スポーツをする、登山に行く、海に行くなど、外で食事をする、コメダ珈琲で友人と会話をする、松屋で牛丼の上に今日は紅ショウガを沢山乗っけてみる等、身体を動かすことで充足感をえられるのは理にかなっています。
このような側面から絵画は労働だと私は思います。汗水ながして描いた絵画は価値があると思うからです。ミケランジェロはシスティーナ礼拝堂の天井壁画を完成させるのに7年かかりました。
わたしは絵を描く行為は本質的にホワイトカラー・ワーカーには属さないと思っています。
よく絵を描くというをアトリエで優雅な服をきながらお上品に絵を描いているイメージがありますが、
そんなんじゃ人を感動させる絵は描けません。構想で悩み、時には絵の題材を得るために取材をし、キャンバスと格闘し、これも違うあれも違うと修正を加えながら、身体をたくさん動かしながら、ディテールを描くときは大変ストレスを抱え(笑)、時間も投資し、ようやく出てくるのが傑作品なのです。
コメダでゆっくりお茶をたしなむ心や、コンピューターやAIでできるだけ楽をして描こうという動機からは出てこないのです(笑)。
ですがそのように現実と闘うこと、この現実界に属しながら、この世界の物質と格闘しながら、使用しながらある作品を残す行為はとても価値のある行為だと思います。そしてそのような経験を通してこそ、身体を通して創作活動への満足感やある悟りを得ることができると思います。
大きな作品を描く・絵は「経験」から
皆さんは何号ぐらいの作品まで描いたことがあるでしょうか?
私は大きな作品を描くことで多くの悟りがあると感じます。例えば200号とか300号とかです
なぜかというと身体すべてを動かして描くことになるからです
絵を手先だけで描くのもいいんですが、表現の可能性は手先だけに宿つているのでなく表現者の体全体に宿っていると思います。大きな作品を身体全体で描くほど、そのアーティストの潜在的な可能性が現れる、そのひと等身大の可能性ではないでしょうか?
巨文島・神秘の岩/制作過程2019/キャンバスに油絵/300号
絵を描く楽しさは頭ではなく、経験を通じで得られます
そこに絵を描く価値があるとも思います。これは同時にある物質を使って描いた経験でもあります
この300号の「岩の絵」を描いていた時の気持ちをまだ覚えているんですが
こちらは大きな板にキャンバスを張り、それを2つ繋げて描きました。
普通のキャンバスとは違い後ろが板なので、絵具を乗っけると木枠は跳ね返ってくるようです、
それがまるで岩を触っているようでした、さらにその岩に光と影のコントラストを描いたいた時のリアルな印象、波の柔らかさをリンシードオイルで表現したときの相性の良さなど、おそらく海で岩や、波を眺めていただけでは分からなかった物質の生成過程のようなものを感じることが出来ました。それは創造の追体験のようなもので、これをAIが全てを仮想空間上で作ってしまったら私が何の体験をできるのでしょうか?
渓谷の山の影や透明な大気というものもリンシードで色を重ねた時にその色が出た体験というのはデジタルでは感じ取れなかった経験です。実際描いた作品は様々なレイヤーとアクションが入っており、深みが断然あるのですが、写真とでは全く違うので、写真でしかお見せ出来ないのが残念です。
西洋には習字という文化がありません。ちなみに私は漢字が大好きなのですが、、アルファベットは味がなくてどうも親近感が湧きませんが、いかがでしょうか?
習字で例えば「山」という字をを書くとい「行為の目的」は体でその形象を感じ、文字を書きつつ山の精神を悟ろうとする行為ではないでしょうか?つまり芸術は制作の経験を通じて物事を悟ろうとしようということです。カナダのTim hortonsの味がしないけどプロモーション戦略で買わせてしまうアメリカ―ノの味や、豚骨をベースにた豚の内臓が入っている韓国料理スンデグクの味の深さは食べたことのない人には分からないようなものです。
また一歩進んで、絵を描く、自然を描くという行為は自然と一つになろうとする行為から悟りを得ようとするのに似ていると言えます(仏教の無為自然)
一つになる目的とは自分がなくなる、個性がなくなることではなく、その「本質を悟ることに目的がある」といえます。
アンチ・モダニズムの時代
モダニズムは身体と頭脳を切り離し、形象と作品の概念を切り離し、コンセプトコンセプチュアルアートの流れをつくりました。要は現代アートは冒頭で言及したように知識重視のアートになったということです。一つの流派としては面白い部分もありますが、結局このアートも物質との関係を無視することは出来ませんでした。絵の具の痕跡や人間の身体性を極力排除したミニマルアートや、ジャスパージョーンズの絵画などモダニズムの概念は現代アートの根底に流れています。
ですが時代はそのような現代アートの知的ゲームにも飽きて来たようです。そしてモダニズム思想は現代社会に共同体の解体を到来させ個人主義は蔓延させ、人と人との関係性や家族を破壊しました。
これは芸術界で顕著に見受けられます。この流れに人々は疲れきっています。
今後は歴史の螺旋運動のように人と人との関係性の見直し、そして心と身体性への関係性の見直しへ、新しく回帰していく時代になりそうです。
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