「死」と「空間」の関係とは?│紅葉と秩序とカオスの狭間で

こんにちは。
今日は人間が「死ぬ」ということとと、
私たちがいる「この空間」との関係について
考えていこうと思います。
え?
そんなこと考えてそんなに暇なのかな?
と思うかもしれませんが
私はそんなことを考えるのが元々好きなのです。
実は私が今年の夏に海外から日本に帰ってきて
丁度3ヶ月が経ちました。
時間が経つっていうのはすっごい早いですよね。
今日は2025年の11月ですが、
秋の山の紅葉が凄く綺麗で、その山に呼ばれるように、、
フッと自分が生まれた実家に行ってみたんですね。物凄く久しぶりに、、、
今住んでいる場所は市街地なのですが
実家は山の中にあり、自転車で30分くらいかけて山の上まで登る必要があります。
秋の晴れた太陽の日差しを浴びながら、
そこで「人間が死ぬということはどうなのか?」
という考えがフッとよぎったんです。
というのも、私の、じいちゃん、ばあちゃん、父親は亡くなってしまっていて既にこの世にいないんですよね。
あと日本って通りが静かで、さらに最近は少子化で子供の姿もグンと見えなくなったじゃないですか。


昔は道を歩いていたらもっと誰かの姿が見えたきがしましたが、、、。
そこから「あるものが無くなっていく」
という感覚を覚えたんです。
いなくなるとは?
人間に「魂」があるかどうかは、
死んでみないと100%わかりませんが
死んだらどこかに行く可能性もありますし、そうでない可能性もあります。
皆さんはどう思うでしょうか?
コメント欄からご意見ください。
ところで、、、
不思議なのは人は何時かいなくなると同時に
私たちは今、この世界に「在って生きている」
ということです。

いなくなるというのは
「昔は在った」ということを前提に話しています。
昔生きていた人だからこそ、いなくなったと表現できるのであり、
もともと存在していなかった人を前提にいうことはできないですよね。
そう考えると
元々存在していなかった人も
存在して亡くなってしまった人も
同じく目の前にはいないのですが
意味が変わってくるということです。
これは言葉は同じですが、意味は大きく違うというのが意味深ですね。
では、、、
私たちがいう「在る世界」というのは
我々が住むこの三次元の世界のことを指しています。つまり、私たちは三次元の空間の中に生きているわけですね。 (時間軸も入れれば4次元ともいえる)
そして人が死んでいなくなるとはこの三次元の世界からいなくなったことを意味しています。
我々は檻の中で生まれた
ところでこの三次元の世界には
なんと三次元の制約があります。
どんな制約かというと、、、「空間の制約」です。
例えばどんなことかというと
AさんとBさんが同時にこの世界に存在しいるとしましょう。
しかし、その二人の間に厚い壁があったり、
山脈の岩盤があったりし、もしくは国が違うとか、そういうふうになると、なかなか会うのが難しいわけですよね。

掘削機で壁をほったり、飛行機で飛んでいかないといけないと、A地点からB地点に行けない訳です。
けれども、面白いのは、三次元空間の違う場所にいるAさんとBさんっていうのは、同時に同じ瞬間に実存している、「我々の住む三次元の空間」の中に同時に生きて存在しているという事実です。
一つはその距離により会うことができないかもしれないけれども、同じ時間に実存するに足る十分条件を満たしているわけです。
ですが、、、
例えばここでBさんが亡くなってしまったとしましょう。つまり「人が死ぬ」というようになると、
この空間に対する十分条件が満たされなくなってしまいます。ですからAさんがいくら大富豪で自家用ジェットをもっていても会うことが出来ないのです。
一人はこの三次元の空間からいなくなるわけですから。これが人の「死」というものです。
さて、、、
ここであることに気づかされます。
それは、、我々がある存在が死んで存在しないか否かを認識する時「空間の制約」を前提に考えているということです。
つまり、あるものが在るか無いかは結局、三次元の空間に今この瞬間に存在しているか否か
を基準に判断しているという事実です。
つまり我々の認識というのは
この三次元の檻籠の中から始まり、檻籠の中でものごとを判断しているのです。

気づいてみれば我々はこの檻籠の中で生まれ
檻籠の中に閉じ込められている状態で生きているのです。ですからそこには檻籠の制約がすでに存在しています。
結局は我々はその檻の中しか知らないし、
その状態で世界を判断しているという事実です。
この状態では檻籠の外に他の世界があるのか無いのかは、檻の中で生まれているゆ籠えに「確かには」知る術がありません。
ですのでそれを知るには頭で推察するか第六感のようなものに頼るということになってきます。
死後の3つの可能性

さて、、、ここから考察して
死後どうなるかについて3つの可能性を考えてみました。
①三次元空間から消え、檻の外に出れる

三次元空間以上の空間や次元にグレードアップされるパターンです。
三次元空間に存在するための必要条件は「肉体」があることです。肉体がある以上はこの三次元の空間に留まれると同時に、留まるしかないのです。
つまり檻籠の制約が最も課されているのが三次元に存在している我々の肉体で、「死」とは肉体がなくなるわけですから、死によって三次元の制約を超えることが出来るかもしれません。肉体により制約と可能性を同時に付与されているわけですね。そこで「死」というものを考えたときに逆説的にそれが客観的な事実として理解できます。
「死」して檻の外に出れるかもしれませんが、何も無かったら大変です。(注意ここでそれを推奨しているわけではありません)
②輪廻する

仏教でいう輪廻転生のようなものです。ですが輪廻するには一度、魂がほかの次元に行く必要性がでてきます。つまり1ステップおいて檻の中の別の存在に魂が戻ってくるわけですね。すると檻の外に他の次元があるというロジックになってきます。
③人間の存在自体が無に帰して土に帰る(循環する)

このロジックが成り立つためには魂と肉体が同じ次元で存在する必要があります。つまり魂も物質である必要がでてきます。(魂や心は別次元の産物ではないという前提)
死ねば肉体は朽ちて元素に分解され土に帰り、心や魂も物質からできていますから、それも何かしらの元素として土に帰ります。
つまり檻籠の世界が全てであり、始まりであり終わりであるわけです。

ところでこの檻籠の三次元の世界が始まりであり終わりあるということは、「完全に無になる」というロジックは成り立たなくなります。何もかも無くなるというのは「何も存在しない次元」を考えないといけなくなってくるからです。
またさらに矛盾するのはこの檻籠を誰が作ったのか?ということです。誰かが作らずして最初からあってあるものだったのでしょうか?
「何も無い」ところから「有る」が生まれるのも説明できませんが、「有るものが完全に無くなる」というのもよくわかりません。あなたはどう思いますか?
私の亡くなったじいちゃん、ばあちゃん、親父はどこにいったのでしょうか?
可能性として辻褄が合うのは①②だと思われます。
何故我々は生まれたのか?

では、、
次に考えさせられるのは何故、
私たちはこの3次元空間に生まれると同時に
3次元の空間という制約を課されるようになっているのか?ということです。
この法と制約は私が生まれる前から存在していたようです。私が生まれたという事実は同時に私が生まれる前があったということを立証しています。
じゃあなぜ3次元的な制約が私たちが生まれる前からこの世の中に存在していたのでしょうか?
意味があって、この法を通すことによって何か秩序を守ったり、反対に3次元の制約を超えようとすると何か問題が起きるのでしょうか?

例えば、、
自由になりすぎる、どこへでもテレポーテーションできる、空間をねじ曲げることができる、 それにより何か問題が生じるのでしょうか?
また死して、もし体の制約が外れ、檻籠の外に行けるのであれば、それによりどのようなメリットがあるのかということも気になります。
カオスと秩序の間で


このようなことを、秋の紅葉と、紅葉で染まった綺麗な山を見ながら、フッと考えました。
確かなのは、「死」というものがあるからこ
檻籠の存在を考えるようになり、その外も考えるようになる。
つまり、、この世界は不思議であり、魅力的であると同時に恐れでもありえるということです。
「死」というものが逆説的に、この世界とは何なのか?ということを語っているようです。

空間の制約が何故あるのか?
自由に空間を行き来できる「どこでもドア」なんかあったらいいんじゃないか?とか思ったりしますが、その制約があるからこそ、世界なのかもしれません。
つまり、葉は朽ちて地面に落ちるとか、葉っぱは季節により黄緑から黄色、赤に変わるとか、、、
そういう「規則や制約や理知」と呼べるような何かがなければ、世界は「カオス」として存在しているのでしょう。
「制約がなく全てが可能な世界」なんていうのはある意味、存在しないのかもしれません。それはまさにカオスの世界であるかもしれないからです。
秩序の反対がカオスと呼ばれていますけども、
我々はこの秩序とカオス狭間で、生と死の意味について考えるのかもしれません。
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