三次元以上の世界には何があるのか?/美は偶然に生じるのか?

私達は3次元の空間の中に生きています。
たとえばこのように体を動かせば物にぶち当たります。そしてそれは皮膚で感じることが出来るものです。ですが、それを越えた次元というものは存在するのでしょうか?またそれを越えた次元には何が存在するのでしょうか?
なぜこんなことを考察するかというと絵画というのは4次元以上の世界を表現するものでもあるからです。
そのため高次元の世界には何があるのかを知る必要があります。
4次元は「過去・現在・未来のような時間軸」であるといいますが、我々は4次元空間に生きているとしても三次元的空間の制約は免れられません。では4次元「以上」には何があるのでしょうか?
テレパシーの存在
あなたはテレパシーのような第六感、映画Six senceのような第六感の存在を信じるでしょうか?
私はテレパシーのようなものは存在すると人生で何度も経験をしました。
例えば私は2012年から2021年まで韓国のソウルで暮らしていたのですが、その時の話です。
ソウルに弘益大学校駅という有名な美術大学のある駅があり、昔その大学院の絵画科に通っていたのですが、、、
そこを卒業して以来、ある友人と何年も合っていなかったんですね。かれは同期でした。
ある朝、久しぶりにその駅に行く用事があり、、、フット、、、「彼は今何をしているのか?」
「絵をまだ描いているのか、そうでないのか?」
と思いがよぎったんです。
そして駅についてブラブラしていたら、丁度、駅の階段のところで彼にばったり会ったのです。
「今朝、、お前がどうしてるかって考えてたとこだったんだ!」
「これは偶然とは呼びにくいな、、、」なんて話をしました。
彼も驚いていました。
これは単なる偶然でしょうか?
私は意識していると見えない何かが通じるものがあると感じました。
つまりそのような「意識」は3次元空間を超越したコンタクトを可能にしているわけです。
ですが、それを経験したことのない人にとってはそれは「統計的」には存在しません。一度そのようなことがあっても統計的に「偶然」としてかたずけてしまうでしょう。しかしそのような経験を何度もしていると統計的に存在するのです。
作家と作品の関係性からみる高次元の世界
芸術家が作品を作る時、先ずは構想があります。この作品は「構図はこのようにして、形はこのようにして色はこのようにするのだ。。。。」作品は全て作り手から出てきたものであり、結果物(作品)が作り手(作家)のもっている潜在力よりも多くのエネルギーや要素を持つことはありません。作品は作家の一部が形をもって出てきたものだかです。猿に人間が描くような絵画は絶対に描けません。
他の例を挙げてみましょう。例えば二次元の長方形の「面」に三次元の「立方体」が含まれていることはあり得ません。逆に、「三次元の立方体」を細分化していくと「二次元の長方形の面の集まりでできていた」なんてことはあります。三次元に見える絵を二次元のキャンバスに描ける理由は人間が3次元の世界に属しているからです。つまりある作品を作る時、作り手はそれ以上の次元を兼ね備えている必要があるのです。エネルギーの世界においてインプットよりアウトプットが大きくなることはありません。
時間軸も含め、この世界が4次元で出来ているとするならば、この世界を作った存在は4次元以上の存在でなければなりません。
この世界が偶然にできたと主張する人がいますが、それは理論的・実践的に不可能です(例えば、唯物論・無神論・進化論者の観点から)。芸術作品を作っていればよくわかりますが、偶然が作品を産むことはできません。偶然に絵の具をキャンバスにぶちまけ続けていても作品は産まれない、というかその行為自体すでに偶然的な行為ではないのです。「ぶちまけて、、偶然性をいかして描いている」と主張するかもしれませんが、絵の具をぶちまけている時点ですでに目的がこもっています。ジャクソンポロックの絵でさえかなりの意図とアクションが作家によってすでに込められています。
「作品=ある存在」が存在するためには、それを作る存在がいなければ存在するにそもそも至らないのです。
これは作品を作ったことのない人には実感として分からないかもしれません。
つまり、、、、4次元の世界が存在すること自体、それが作られるためにより高次元の世界が存在しないといけないという理論になります。これは物理学でいうブレーンやマルチバースです。
高次元の世界は低次元の要素を内包する/遠近法とそれ以上の認識
絵画の世界ではパースペクティブ(遠近法・主に三点透視法)といって目に見える現象は全てX/Y/Z軸の座標の中に当てはめて描くことが出来ます。これにあてはめることにより人は物を立体的に認識できるのです。ですがこれには盲点があり、見えない部分が存在してくるのです。例えば三点透視法で高層ビルを描く時、ビルの裏側は全く見えません。カフエの中にトイレがあったとしてもそのカフエのトイレの中にいる人は見えません。
これが三次元の世界です。
ですが絵を描く画家の立場から、、、目に見える現象を全て描けるようになると、それは遠近法におけるイメージであると認識するようになり、認識の一つの過程にすぎないと感じるようになります。ですが空間認識においては遠近法は非常に役に立つのです。
ところで四次元の世界ではどうでしょうか?認識能力が一段階アップします。
もしそのカフェのトイレから10分後に人が出てきたら、「あっ!中に人がいたんだ!」とそこまで認識できるようになります。
このような流れから、4次元以上の世界、例えば5次元の世界では、高層ビルの表も裏も中も一度に認識できる世界であろうと考察します。遠近法がxyzの3つの軸だけでできていますから、さらに別の軸も2つくらい加わるのです。我々が5次元の世界をイメージしずらいのは我々の脳のイメージの空間処理能力が主に三点透視法を通してするようにできているからです。つまり脳の処理速度や方法がそれにフォーカスを当てており、それ以外の認識機能が脳に備わっていない(かまだ未知)であるためだと思います。もし映画「lucy」のように脳の機能を100%発揮したら、、、高い次元の世界まで認識できるかもしれません。
また脳と体は4次元の世界に属していますので、三次元的な空間的制約の中にいます。
しかし意識や心はより高い次元(ビルの裏側やカフェの中のトイレが見える次元)に属しているのかもしれません。そのような理屈からすれば、意識や心は空間的制約を越えることができ、テレパシーや世界の裏側、あの世で起っていいることを察する能力があるかもしれないのです。
盲目の人は空間をどのように認識しているか?
ではもし高次元の世界があったとしてらそれを私たちの脳で捉えることができるでしょうか?
ユーチューブでとある盲目の女性が出てきて、盲人は世界を暗闇でみえているのか、光が全く捉えらないのか、少し見えるのか?という問いに答えていました。彼女は「そのどちらでもない」と答えました。「それは肘の先で先を見ているような感覚なんだと、、、。視野の真ん中にうっすら光は見えるのだが、真っ暗闇ではない」。
ところで目が見えない、または目がないとすると、そもそも暗闇(黒)とは存在するのでしょうか?
あるブログ記事では盲人は山脈をどのように見ているか?という記事で、我々は山を三次元の遠近法でみているが、盲人は円錐を上からのぞき込むような感じで情報を把握しているということでした。これは東洋の遠近法を無視した地図をイメージさせます。彼は視覚がない分、より第六感を使い高次元の物の捉え方をしているのかもしれません。
ところで高次元の世界において三次元的(遠近法的)なものの見方が無くなるとは考えづらいです、何故かというと高次元の中により低次元の世界はすでに内包されているからです。つまり高次元の世界に行ったとするなら、三次元的なものの見え方+より高次元的なものの見え方が混在しているといえるでしょう。
美は偶然に生まれるのか?
さて、高次元の世界が存在すると仮定すると、ますますその世界が偶然に生じたと考えるのは難しくなります。
高度なコンピューターは高度な知能によって設計されるわけであり、偶然に生じる確率は限りなく0に近いからです。
ではそのような観点から「美」とは何でしょうか?
美は偶然生じるモノなのでしょうか?
例えば「自然の美」について考えてみます。
山に雨が降って川になり、それが山の斜面を削り、ある形を作ったとしましょう。そしてそれがなんとも美しい、、、「この形は偶然の要素が重なって作られたものだ、、、」と考える人は多いです。雨が降ることに人為的な動作が含まれるとは考えずらいからです。
ですが、それは本当に偶然の積み重ねで作られたものでしょうか?
そこでいう「人為的な動作」とは人間が手でジョーロをもって雨を降らす的な意味合いだけなのでしょうか?
まず雨が降ること自体、生態系システムの中で理由があり、目的があります。雨が降ることは水分を山に供給し、森林が枯れないようにさせているのです。意味もなく雨が降るわけではありません。ある存在を維持するために合目的的な関係をもってある現象が起こるわけです。「エントロピー増大の法則」といって、ある存在、例えば本やネズミの死体をその場所に放置しておくとエントロピー(無秩序さという意味)が増大して、朽ちていく(土に帰る)。つまり自然はそのままにしておくとエントロピーが増大する(無秩序になる)という法則があるといいますが、死体が朽ちて土に帰ること自体も生態系の循環においては必要なプログラムです。自然には無駄がありません。
つぎに動物を考えてみます。
私が南米に住んでいた時に犬(ジャーマン・シェパード・雌)と一緒に住んでいたのですが、、、
犬を飼うのは初めての経験でした。名前はシャイロです。
私は最初は「犬=動物」だと思っていて、犬のする行動に意思や思いが込められているとは実感がありませんでした。ですがシャイロのする行動にはすべて目的があり、感情のようなものがあるのを知ったのです。
ちなみに、個人的には猫は不愛想なので好きではありません。
科学では犬もオキシトシン(愛情ホルモン)を感じることができるという研究結果を出しました。
そこから世界を見る目が変わりました。
もし犬がそうなら鳥も魚も植物や鉱物も、、、次元の違いはあれ、何か意思や目的のようなものをもっているのではないか?全ての存在に目的と意思があるのではないか?
美と目的の関係性
さて、ここで「美と目的の関係性」について考えてみます。
私は美とは目的なしには生まれてこないと考えています。
つまり目的がない=偶然と呼ばれるような行為や事象からは美が生まれないということです。
例えばある日偶然、道を歩いていたらピンクのペンキの入ったバケツにつまずいて、偶然そのバケツの横にキャンバスが置いてあって、偶然そのキャンバスの上にピンクのペイントがぶちまかれて、偶然そのペンキの跡が桜の木の形になり、偶然人間が見て美しい黄金比率を含んだ美しい桜の木の絵になりましたぁ~。
なんてことは起こりえないということです。桜の木の幹の形の比率がおかしいだけで美しく見えません。
ここで二人の人間を人生を例を例えて、どちらの人の人生を見て美しいと思うか?について考えていきたいと思います。
Aさんは、毎日ソファーに座って仕事もせず、ネットフリックスを見ながらポテチを食べるのが日課のぶくぶく太ったニートの男性43歳です。このような生活を21年間続けており、人生のモット―は「楽して生きよう」です。ちなみにこのような人を英語でカウチ・ポテト(Couch poteto)といい、グーグル検索すると出てきます。
Bさんは、波乱万丈の人生を生きてきました、若くして両親が亡くなり、幼い弟を養うために毎日アルバイトをしながらレストランの店長になりました。その後コロナ下でレストランは経営不振、お客さんは来ず、20年間経営していたレストランは閉店せざるを得なくなりました。人生諦めそうになって彼でしたが、学ぶことをやめず、一年間職業訓練所に通いながら、現在は百貨店の営業部署に努めている45歳男性です。彼の人生のモットーは「人生は自分のためだけに生きるのではない」です。
さてこのどちらの人間の人生がより「美しい」と思うでしょうか。。。。?
多くの人はBさんの人生をより美しいと思うでしょう。
稀にAさんと答える人も知れません、、、。
ある人の人生が美しいという場合、ただ、だらだら日々を目的なく過ごした人の人生よりも、
、山あり谷ありの試練にあいながらも目的をもって生きている人の姿をみて美しいというと思います。
目的は存在の中心にある
人々が春になって桜を見て綺麗だという時、桜のその芸術性に惹かれています。
力強い幹と繊細な桜の花、そして短い期間で散ってしまう花びら。それは人間にその一瞬を見せるために長年準備してきたようです。
私は映画「君の名は」を開封当時、ソウルの映画館で見たのですが、
その時に大変、感動しました。それは単なるアニメーションではなく総合芸術作品の域だと思ったんですね。
スタッフは労働に比べて賃金が少ないとか、、、いろいろな噂がありましたが、映画のストーリーやイラスト、音楽、エフェクト、が全てが映画のコンセプトを伝えるために総動員されていて、ものすごい時間と労力をかけて作ったのだなぁと感動しました。
絵を描くのは大変なエネルギーが伴います。時には描くのが嫌になったり、70%描いてたら興味が無くなってきて、最後まで描き切るのが苦痛になったりもします。最後の10ー20%を完成させる時が一番大変です。
ゴッホが「機織り」をみてインスピレーションを受け、絵の具をキャンバスで混ぜることなく織るように塗ることを思いついたと言われていますが、機織りも一本一本の糸が一つの服を作るという目的のもとに存在しています。
作品を作るというのも結局はコンセプト(目的)がありそれを形にしようという行為です。それでこそ初めて「作品」が生まれ「美」が生まれるということを否定できません。
そしてその人間や宇宙を動かしている形のない「目的・理念のようなもの」は4次元以上の次元に属していて、かつ最も高い次元に属しているといえます。何故かというと、それは全ての物事の存在の中心にあるものだからです。
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