画家は酒に酔って描いていて大成するのか?

モンマルトル

こんにちは
あなたは「画家」というとどのようなイメージをお持ちでしょうか?

昔からよく?というか中年の方が語るに、印象派のパリの画家の時代の画家
を引き合いにだしながら、、、
「やっぱり絵はな~」「芸術ってもんは、、、」「画家ってのはぁぁ、、、」みたいな感じで
「酒によってガガガァァァーて感じで描くといい作品が生まれるんだよー」

ていう人みたことありませんか?
私は経験でそのように語る人を4,5人見たことがあります。

芸術人生

ですが、、、、画家とは本当にそのように生きながら傑作品を作っているのでしょうか?
そしてその方たちは本当に絵を描いてみたことがあるのでしょうか?

しょうもないテーマのように思うかもしれませんが(笑)しょうもないテーマも面白いので、
今日はそこについて語っていきたいと思います。
ご意見あれば何でもコメント欄からお願いします。

目次

画家と美術に対するイメージの幻想

よく美術・芸術なんてキーワードを検索するとインスタなどで
アトリエで優雅でお洒落な服を着た綺麗なお姉さんが、素敵な作品をイーゼルを前に描き、
出来た作品(最近は少し大きめの作品が多い)と一緒に映っている写真を目にしますが、

あなたはそれに憧れるでしょうか?

何故かというと、絵は優雅に描くにはあまりに余裕がありません。
優雅に描いて素晴らしい(人を感動させるような)作品を描いている人を私は一人も見たことがありません。というのは、考えること、絵具を混ぜること、クオリティーを高めていくことなどは
沢山の労働力がいるからです。

画家人生

とても綺麗なお姉さんであっても、作品を描いている姿をみると、汚い絵具でまみれたエプロンや、
作業に楽なゴムのスリッパをはいていたり、アトリエにはテレピンの匂い、、、なにか訳の分からない、オブジェが置いてある、展示会の準備であまり寝ておらず、エナジードリンクを飲んでも回復しきれないので疲れて見える(笑)等、優雅さの「雅」の字も感じられないような雰囲気を醸し出して制作をしていました。インスタグラムは一番良く見える瞬間だけを映しているにすぎません。

「美徳/ virtue」という言葉がありますが(個人的にはその字が好きなのですが、、)
「美」というものが出来るまで、そこには沢山の努力がこめられていると感じます。
もし、そのような「美」が簡単に絵の具を乗っけるだけで出来たり、試行錯誤なしに生まれてくると思うならば、美術を始めて必ず挫折すると思います。

そして簡単に手に入る、出来るようになろうとする行動に「美徳」は感じないと思うのです。また、楽をして描いた作品が描き手に満足感を与えてくれるとは思えないからです。
私は楽をして傑作品を描きたいとは思いません

絵画は自己犠牲の賜物

アメリカでは、ホワイトカラーワーカー(オフィス業)なのか、ブルーカラーワーカー(労働業)なのかと言ったりしますが、私は絵を描く行為はブルーワーカーに近いと思います。
絵を描くにはあまりに沢山の労力が必要です。出来上がった作品はパパッとできたように感じますが、、、、
なので、私は芸術とは自己犠牲であり「労働」だと思っています

これも個人的な話ですが、絵を描く時、特に大作(200号、300号)を描く時に大変だったのは
自分をコントロールすることでした、大きな作品を描いたことがある人は分かると思いますが、一日何時間以上は椅子に座って作品を描くとか、朝は何時におきて作業室に向かうとか、
体の健康状態も管理しないといけないし、、
また絵を描くモチベ―ションを保つことも難しいです。精神的にネガティブ・スタンスで、悲観的で憂鬱な状態ではまず絵が描けません(少なくとも私の場合は)。憂鬱で悲観的で快楽的なフランシス・ベーコンやルシアン・フロイドのような鑑賞者の感情をマイナスにするダークな作品は描けるかもしれませんが。ということで、何時間もキャンバスに向かって時間と労力と精神を投資しないと傑作品は生まれません。

芸術家努力



さて、、、、では酒によってふらふらとろくに自分の体もコントロールできない状態で傑作が生まれるのでしょうか?酒に酔っていたら梯子から転落したり、ペンキ缶や筆洗筒にあたって後始末をしないと行けなくなるのではないですか。大学時代に実際そのように描いてみたことがありますが、酒に酔っていると筆さばきが狂います。そして肉体的に朦朧としてくるので、体が眠いとか疲れたといえば、描きたくなくなるのです。長時間集中できずに筆を置くのがオチです。展覧会の締め切りに追われていたらそんな余裕もないでしょう。

人間の精神を弱体化させたモダニズム主義

モダニズム以降の芸術精神
このような作品を制作する上での根本的なマインドや人間が存在する上での存在条件を否定するきっかけになりました絵画を解体しながら、芸術を文化相対主義のもとに、醜を美とし、無意味や無価値を価値とし、描かないことを描いたこととしてきました。このような「楽をして芸術をする」または「知識/interactualを最高の価値とする」という価値観です。この風潮は芸術において精神と肉体を細分化し切り離しました。本質的な価値観を「解体」して自分が楽をするための都合のよい価値観を作りあげる=根本的には享楽主義(Hedonism)という精神がモダニズム以降の芸術精神の根底に流れています。いわゆる誰かが言う「酒によって作品をつくらないといけない」という価値観はその価値観に由来する部分があります。
ですが「現実」はあまくはありません、いくら大そうな哲学を作品に込め、ニーチェやカントの言葉で作品を説明したり、いかに自分がカリスマ的な振る舞いでその作品を作ったり、有名な大学を出てようが、作品が良いかそうでないかは鑑賞者に伝わってしまいます。ほとんどの鑑賞者は作品を知的には見ないからです。つまり、作品を鑑賞する行為とは知識/interactualな部分もありますが、より直観的であり感性重視です。

芸術史は大きな転換期を迎える

私の知る限り傑作品とは絶え間ない画家の労力と精神の蓄積や研究の成果が込められています
ミケランジェロが最後の審判を描くのに5年もかかりました。
ある画家は明日世界が終わるような気持ちで自分のすべてをキャンバスに表現しようとしています。
また知り合いの韓国の画家さんは筆を握らない日がなく、制作に全てを注いでいます。

「酒に酔ってガガっと描けば傑作が生まれる」といっている人は
一度も傑作品を描いたことがないのは確か
です
そしてその人が描いた作品はなによりも「人を感動させない」でしょう。

ですが、そうやって己の作品にすべてを込めようとして努力してこそ、自分の作品を誇れるのではないですか?

今後は知識重視から関係性重視の美術史になると思います。
時代はモダニズム、ポストモダニズムの終焉になりました。「知識や新しいことをすることを価値」としたり、「無価値を価値」としてきた現代アートの時代はいきつくところまできました。そしてそこに大して深い価値を感じないのを多くの人が悟りました。現代アートビジネスにおいて巨額の取引がされる中心的な作品達は、その作品が鑑賞者に深い感銘をあたえるのかかが重要でなく、モダニズムの価値観を基盤に、アイデアと投資作品としての知名度があるかで取引がなされます。
そのようなビジネスモデルと作品に込められる価値が再認識される時代の変わり目に我々は生きていると言えるでしょう。



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モンマルトル

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◆この記事を書いた人

Gemmaのアバター Gemma 源馬久崇ーLandscape Artistー

旅をしながら絵を描いている画家です。
「芸術は人生を豊かにする」ことを信じて活動しています。
大変な時代ですが共に頑張りましょう。

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