言葉と美の関係性/文人画と読む絵画とは?

甲骨文

東洋画と西洋画の違いとは何でしょうか?
その一つに東洋では文字を芸術の一部として捉えていることにあります。
中国の山水画をみると余白の上に文字が描かれてていたりしますよね?
ちなみに私は「漢字」が一番好きなんですが、、、、
書道もそうですが「漢字」は東洋の深い芸術精神の現れだと思います。
私は漢字は世界の言語の中でもっとも意味と視覚イメージと結びつけるのに成功したものだと思います。
また文字と絵画が一緒に存在するものを文人画(literati painting)といいます。
今日はそんな東洋の文字に対する芸術精神文人画の精神について探求していきたいと思います。

文人画
 Zheng Xie (1693—1765)
目次

世界最古の文字と漢字の由来

中東や西洋では「文字」は芸術というより、主に「法律」や「記録伝達」の役割で使われてきました。西洋で最も古い言語は、紀元前900年頃の古代ギリシャ語9(ancient greek)です。ですが世界で最も古い文字は中東で使われていた言語達でヘブライ語(ヒブリ語/Hebrew)シュメール語(紀元前4000年の古代メソポタミア/Sumerian)やサンスクリッド語(紀元前1500年古代インド/南アジア/Sanskrit)です。

古代ギリシャ語
古代ギリシャ語
ヘブライ語聖書
ヘブライ語
シュメール語
シュメール語
モントリオール
ユダヤ人の行事が行われている

ヘブライ語は旧約聖書を記載した言葉でもあり、当時のイスラエル民族から使われている言葉です。ユダヤ人の読むトーラー(律法書)はヘブライ語で書かれています。

私がカナダのモントリオールに住んでいた時、たまたまユダヤ人のコミュニティーが沢山ある区画(Rosemont)に住んでいたんですが、シナゴーク(集会所)や大きな帽子をかぶったユダヤ人たちを見かけていました。彼らにとって文字とは神からの言葉や先人の教えを伝える役割が大きいのです。(イスラエルのある中東は西洋ではありませんが、、)。写真はユダヤ人の行事(お祭り?)が道で行われていて沢山の黒い伝統的な服装に帽子をかぶっている。

モントリオール
カナダ/モントリオール/ローズモント(Rosemont)
甲骨文
甲骨文から漢字へ

では漢字(Chinese characters)はいつ使われるようになったのでしょうか?
漢字はもともと中国の殷(いん)の時代(紀元1600ー紀元1046年)にすでにあった甲骨文から発展したものです、甲骨占いや自然崇拝や先祖崇拝と連結していたそうです。


漢の時代(紀元206ー220年)に全土に普及したので「漢字」といわれます。

また漢字には聖書の内容も示唆する啓示的な意味も含まれているそうです。
こちらのユーチューブ動画参照↓
漢字に宿る聖書物語/Eden Media
参照

台湾での「漢字」体験に感動

台湾や中国に行かれたことがある人は分かると思いますが、
私は2018年ごろに、台湾や香港行った時にとても精神的に落ち着いたのを感じました。その理由の一つが「全て漢字で書かれている」ことだったんですね。カナダやアメリカや韓国にいた時はこのような心の安心感はあまりなかったんですが、、、
漢字と風水の関係についての動画はこちらから

台湾の漢字
どこかで見た記号
台湾
台湾/十分
台湾の展示

こちらは台湾の台北での写真です。上の駅の写真は十分九分という千と千尋の舞台になった場所にに行ってきました。台湾の料理屋や気候もとても良くて、いい思い出でです。

また展示にも行ってきましたが、有名な画家の展示もやっていて絵も大変良かったです。

漢字が何故良いかというと文字の形に「気」の流れを感じることができるからだと思います。
気の流れは風水と関わってきますが、、、
漢字と風水の関係についてはこちらの動画で語っています。よろしければ↓

漢字と風水の関係について

文人画の歴史と詩の内容


では文字と絵が合体した人文画とは一体何でしょうか?
なぜ文字と絵を一緒に描いたのでしょうか?

文人画は禅宗や道教の感性と結びついて芸術として発展していきました。
これらの宗教では「自然との調和」「自然の美しさについて説いている」います。
そしてそれが次のような文人画の詩の内容として現れています。

文人画の詩の内容

花鳥風月や山水の美
陰陽五行説の説く自然の移り(春夏秋冬)
自然との調和
人間の内面の描写や修養
人間の感情(友人や愛する人への思い)


このように、、、文人画では
絵と詩が一体となって鑑賞者に深い感動を与えるようになるのです。
つまりお互いは作品の中で補完関係として存在しているのです。
この芸術のスタイルが西洋ではなく東洋で発展したのは興味深い部分です。

では文人画はいつ生れたのでしょうか?

文人画の誕生
中国→唐代(7世紀-10世紀)で生まれ、宋代(10世紀-13世紀)で発展
朝鮮→朝鮮時代(14世紀-20世紀初頭)に中国の影響を受けて独自の文人画が発展
日本→室町時代(14世紀-16世紀)に禅宗の影響を受けて発展

有名な文人画家は
中国の王維(699ー761/Wang Wei (Tang dynasty))や唐寅(1470ー1524/Tang Yon)です。日本では与謝蕪村(よさぶそん)が俳諧と絵を融合させた芸術を。絵に詩的な要素を取り入れ、読み解くことを重視

王維
Wang_Wei/王維/Snowy_River
唐寅
唐寅

読む芸術として文人画

文同
Wen Tong/文同

 文人画では「読むための絵」と言われます。東洋では絵を読むという概念があるのです。
絵を読むというのは絵を視覚的な綺麗さとかだけで見るのでなく文字に変換して、声に出して読んでみるということです。それにより画家が言いたかったことをさらに深くキャッチすることが出来るということです。

文人画は伝統的に、掛け軸・巻物・冊子の中に描かれていました。つまりページごとに絵と文字が書かれ、読み進めていくのです。つまり絵を「読む」体験が強調されました。

私の韓国人の知り合いの方に警察官の方がいて文学的な人でした。
その方は女性として凶悪強盗犯を捕まえる長官として韓国至上初めて任命された人です。
とても強い人ですが、同時に文学的な人で家を文学図書館のように改造してオープンしていました。
その人は絵がとても好きで私の作品を購入してくれたのですが、絵を見る時に感じた内容を詩に置き換えたり、言葉に置き換えて画家が説明する以上のことを感じているのを感じました。それはアートキュレイター以上でした。つまり言葉で置き換えるとは、ただ絵を説明するのでなく、それ以上の内容を感じることができるの手段なのです。
どういうことかというと、、、、、次の「絵」を詩を読むように表現してみようと思います。

コロンビアの風景画

これは南米のサンクリストバルの丘、この地域は貧しい地域だけれども、ここに住んでいる人たちは日々を楽しく生きようとしている。ニューヨークの都市のような裕福な地域ではみられない急な丘は、交通の便が悪そうだ。しかし、古びたスペイン風の伝統的な家々はこの地域のシンボルでもある。貧しい地域は芸術になりえないのか? そうではない、何故なら丘を登る様に飛んでいる鳥はどんな環境でもいつかは解放され、人々の感じ方次第で、それは芸術になりえることを象徴しているからだ。


どうでしょうか?
上の絵は私が南米コロンビアのサンクリストバルという地域で描いた作品で、
絵の中に文字はありませんが
ただ見るだけでなく、、、
言葉で読んでみると作品からより深く伝わってくるものがないでしょうか?
つまり言葉はより感じたものを具体化してくれるのです。
これが作品を「読む」ということです。
文人画は書や詩も入れることで、絵にさらなる意味や感情を加えました。

サンクリストバルの野外スケッチの内容はこちらから


また東洋画では遠近法に合わない構図であったりします。
これは現実そのままを伝えるのでなく鑑賞者が読むための絵として描かれているともいえます。
実際、韓国に住んで分かりましたが、韓国人は詩を読むように絵を読む人が多かったです。

山水画
韓国人の壮年

この絵をみると北漢山(ソウルにある山)に若いころ上ったのを思い出すよ。あの時、松の下で弁当を食べたのを覚えている。あの頃はみんなで助け合っていて今よりも良かった、、、、。

韓国人中年

何故、太陽をオレンジで描いたの?なにか心に強烈な思いがあったのか?それとも新年を迎えるようなものか?

西洋と東洋の文字の意義


東洋で文字が「習字」のように芸術になりえたのは何故でしょうか?

●西洋
西洋では文字は主に記録伝達の手段として使われてきました。聖書のように信仰や教義や法律を伝えるためのテキストだったり、歴史を伝えるためのテキストとしてです。また同時に西洋では古代ギリシャ・ローマからルネサンス期にかけて、論理性・客観性・理性が重んじられたので、文字は情報伝達や記録の手段として発展し、合理的で機能的、実用的な用途をもっていました。つまり、、、美的な表現としての発展は限定的だったのです。したがって西洋では文字と絵画は違う役割を持つものとして、分けて考えられてきました。例えば、「聖書の文字」と「教会の宗教画」は違う役割を持っていました。聖書の言葉は神の言葉でありその通りに受け取ることが重要で、宗教画は文字の読めない人へ聖書の内容を伝えるための手段でした。
絵画においてもルネサンス以降は明暗でいかに現実をリアルに描写し史実を伝えるかという記録や信仰としての絵画という役割が強調されています。これは西洋では「真・善・美」を分けえて捉え、各々に役割を分担させるという傾向が強いです。

西洋文化



●東洋
東洋画では物事を分けて考えるというよりも、調和や全体感を重んじてきたので、「真・善・美」の境界線を曖昧にして一つのものとして捉えているといえます。それ故に文字と絵画を分けなかったというのが妥当な理由でしょう。先に触れたように、東洋の道教や禅では、自然との一体感、理性よりも直感、内面の調和に目を向けていました。これは言い換えると「書道」という分野においても美的表現や精神性の重視されることとも結びついています。文字が記録伝達の手段としてだけではなく、芸術的で精神的な表現としても重視されたのです。つまり、、、東洋の美学や精神性と西洋の美学や精神性が違ったので西洋で書道は流行らなかったといえます。

東洋文化


絵画においては東洋では内面に目を向けることから明暗という視覚的な要素よりも物の本質を表す「線」や「輪郭線」を強調して表現します。絵画において明暗を強調すると線が弱く見え、線を強調するならば明暗が弱く見えるのです。これはドラクロワのいった言葉でもあります。西洋において線はスケッチの時のみに使われ、その線はいつも明暗を含んでいます。

ドラクロワ
ドラクロワ/。明暗を強調した例
ドラクロワ
ドラクロワ/線を強調した例


ところで「漢字」というのは万物の視覚的イメージが言葉になっているもの、つまり視覚イメージと意味を連結させるのに最も成功している形象文字であると思います。また自然界の形に近いので美を同時に含んでいます。例えば、山という文字は山の形を抽象化して出来たものです。ある見方からみると、漢字は形象(真)・意味(善)・造形的美(美)これが一つになっていると見ることもできます。これは私のブログで度々触れる精神(意味)と物質(視覚イメージ)が連結している例です。なので「山」という文字を書くことでの精神に近づき、山の精神を知ることで山という文字が良く書くことができるといえるでしょう。書道の目的は文字を描きつつその文字の精神を理解または近づくことが目的であるといえます。これはスケッチや風景画を描くのも同じです。そして精神と形を上手く連結させて書けたなら、その「山」という字からは「美」が感じられるのです。ですが全ての文字が言語学的に真・善・美を上手く包括して作られているかというとそうではないと思います。例えば、、、古代ギリシャ語からは深い美というものが感じられません(私は)。そのように真・善・美を上手く兼ね備えていない言語は歴史とともに無くなっていくのだと思います。これが絵画におけ作品も同じことです。

文人画では絵と詩が融合することで、言葉そのものが芸術作品の重要な一つの要素となりました。これにより、視覚的な美しさが言葉の持つ深い意味や感情を感化させ、言葉が絵の内容を感化させるようにお互いがプラスの相乗効果を発揮します。これは絵の構図を変化させるのにも役立ちます。どういうことかというと、、、、東洋画では西洋の完璧な遠近法ではなく多視点という自由な遠近法が取り入れられています。もし絵を文字を読むように描くならば自由な遠近法が取り入れられるようになります。これは絵本をみると想像画のような回想シーンと現実のシーンが一緒に描かれているようなものです。東洋画において自由な遠近法が取り入れられているというのも、絵を読むように描く、絵と文字を分けなかったというのが一つの理由になりえるでしょう。これは現代アートでいうと設置美術の背後に絵画が掛かっているインスタレーションのようなものです。絵画は手前のオブジェの位置や形を考えさせ、オブジェは背景の絵の内容を変化させ、お互いが相乗効果が起こる様に作らなければなりません。

世界の始まりは言葉から

この宇宙がビックバンで言われているようにある一点から始まったのであれば、、その点は全ての万物を抽象化させて凝縮したものでなければなりません。そしてそこに全ての概念が入っていなければなりません。言葉というのはそのような抽象化された概念です。
何故かというと、全ての物の概念は言葉で表現できるからです。
言い換えると抽象化された概念としての「言葉」をもとに形と質量を持った現実世界が創られたと見ることが出来ます。
そのように見ると言葉と視覚的な実態(形)とは相互に連結していると言えるでしょう。

新約聖書のヨハネ福音書第1章」に次のようにあります

はじめにことばがあった。ことばかみともにあった。ことばかみであった。
このことばはじめにかみともにあった。
すべてのものは、これによってできた。
できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった
この
ことば

いのち
があった。そしてこの
いのち

ひと

ひかり
であった

またギリシャ語で「ロゴス/logos」という言葉がありますが、これは
古代ギリシャ哲学(ancient greek philosophy)やスコラ哲学(Scholasticism)では宇宙を支配する法則だったり、同時に言葉・真理・理性・概念という意味を含みます。
つまり言葉=宇宙の法則であったりするわけです。

精神が先か物質が先かという問には
言葉が先にあったとすると、精神(理念)が先
だということができます。
この観点からすると絵画のような物質よりも言葉のような概念がより本質であるということが出来ます。
絵や物質は時間とともに腐敗し朽ちていきますが、、、
ですので絵画よりも聖書やトーラーや神話のような話が先に残っているのは理にかなっています。
この観点では記録伝達の手段としての言葉という西洋の概念はより本質的です。

人間関係において言葉は人を生かしたり殺したりもできます。
また自分の思い浮かべる言葉によって生きる力が出てきたり人生に失望したり
もします。
芸術は言葉から出てくると言ってもいいし、我々がもっと貴重視するべきものであります。



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◆この記事を書いた人

Gemmaのアバター Gemma 源馬久崇ーLandscape Artistー

旅をしながら絵を描いている画家です。
「芸術は人生を豊かにする」ことを信じて活動しています。
大変な時代ですが共に頑張りましょう。

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